100年以上前の菓子の実物が現存する?!謎多き和菓子「亥の子餅」
突然ですが、2025年11月2日(日)は何の日ですか?そう、亥の月の最初の亥の日ですので、亥の時刻(午後10時頃)に亥の子餅を食べて無病息災を願う日ですよね。え、ピンと来ないですか?
「亥」だらけの文章を読むと混乱すると思いますが、今回紹介したいのは謎多き和菓子「亥の子餅(いのこもち)」です。ほかの季節の和菓子に比べてあまり知られておらず、その理由は、現代の一般家庭では見なくなった「炉」との関係があります。
茶道では旧暦10月、現在の11月に、夏の間に使った風炉(ふろ)をしめて、畳の中に入る炉を出し、「炉開き」を行います。そして亭主が猪・うり坊の形の和菓子「亥の子餅」、或いは手作りのおぜんざい(赤色は厄除けの意味)で客人をもてなします。
ちなみに同じ時期にはその年の新茶を十分熟成させて、皆と初めて飲む「口切り茶事」もあり、11月は「茶人の正月」とも言われています。
↑ 11月は「風炉」から「炉」に変わり「炉開き」を行います。
江戸時代までは一般家庭にも炉があり(ない場合はこたつに火を入れる際に)、一番最初に書きました「亥の月の最初の亥の日ですので、亥の時刻(午後10時頃)」に亥の子餅を食べて無病息災、そして火災除けを祈りました。当時の江戸はしょっちゅう火災が発生したそうですね。「猪」は水との関連性が高いとされており、火災除けの信仰につながっています。今は炉ではなくエアコン・暖房が一般的になったため、この風習は茶人の間だけに残っています。
この風習の原点は平安時代までさかのぼります。中国から陰陽道とともに伝来した「亥子祝(いのこいわい)」という行事をもとにして、宮中では「玄猪(げんちょ)の儀式」が行われた、と一般的には言われています。玄猪の儀式では、お餅を貴族間で贈り合ったり、宮中に献上したりといったことが行われており、この玄猪の儀式に由来して、鎌倉時代から江戸時代までは将軍から大名たちに「玄猪餅」を配る風習がありました。この「玄猪餅」が、亥の子餅の原点です。
↑ 御所西にある護王神社。猪は和気清麻呂(わけのきよまろ)伝説にまつわる京都の愛宕神社と護王神社で神の使いとして祀られている。
さて、ここまでは「亥の子餅」の一般的な説明になります。がしかし、調べた結果、いくつかの疑問点が出ましたので、深堀りしたいと思います。
平安時代に伝わった中国の「亥子祝」はない?!
あくまでも私が調べた限りですが、旧暦10月や新暦11月、中国本土や台湾で「猪」或いは「豚」に関する行事・祭りはないらしいです。旧正月には豚を献上する風習はあるらしいですが、うんん、やはり違いますね、「水」と「炉」との関連性がほとんどないですね。そもそも中国の干支では「猪」ではなく「豚」のほうですよね。
脱線気味ですが、なぜ日本の干支は豚ではなく猪?諸説ありますが、猪は実は在来種。てことは干支を考えた中国本土では知名度は低く、また、日本の庶民には家畜の豚を知る人も少なかったと考えられます。陰陽道が伝来されるときに、庶民に馴染みのある猪に変更したのでは?
1000年前、平安時代に果たして何を参考に「玄猪の儀式」を始めたのかな?現代に残っていない祭り、または特定の地方の祭りを参考にしたのか、残念ながら不明のままになります。疑問を抱いたまま、さらにおったまげな記事を発見。
100年以上前の「亥の子餅」の実物が現存する?!
生菓子のはずの餅が、100年以上もつことはないはずですが、本当にあるらしいです。しかも2個もあります。
一つは橋爪伸子先生の研究で、平和家関係文書群に残されていた「玄猪餅」。近世丹波綾部藩士で、町奉行・寺社奉行など重職を務めた平和家に対して、禁裏御所の玄猪の行事で下賜された餅です。
もう一つは平田豊弘先生の研究で、肥後国天草郡御領村(現在の熊本県天草市五和町)の豪商であった石本家に残る「玄猪餅」。天保5(1834)年に玄猪行事において11代将軍徳川家斉より下賜された箱入りの玄猪餅だそうです。
これ以上書くと論文になりますので、興味ある方ぜひ調べてください。以上の研究からわかった点は2つあります。一つは、「玄猪餅」は猪・うり坊の形ではなく、単なる丸い餅でした。色は茶色、または紅白でした。
もう一つは、「玄猪餅」は食べるために配るのではなく、お守りとして配ったらしいです。それで箱の中にある餅が今まで残っていたわけですね。てっきり地方の大名が「餅苦手だけど、将軍が配ったんだから、なんとか食べるのをごまかして家の中に隠そう。。。」
「さあ、遠慮なく、召し上がれ!」
「あの、すみません、実はおなかの調子が優れなくて、持って帰っていいですか?」
「そうかい、気の毒ですな、ではお大事に。」
「よっしゃ、何とか信じてもらえた、紙に包んで持って帰ろうっと。」
というわけではなかったですね、残念。こっちのほうが面白いのに。
では最後に「亥の子餅」の謎を解くために一番参考になった資料を紹介します。その資料は京都の御粽司「川端道喜(かわばたどうき)」の十五代当主が書いた『和菓子の京都』という本です。
実は「玄猪の儀式」は途切れました?!
この本曰く、平安時代に、玄猪の月(10月後半と11月前半)亥の刻に天皇が民、万民の平穏を祈る儀式を行い、公家百官に白・黒・赤の小餅を配りました。この小餅は食べずに壇紙(だんし)で包んでおき、旅のお守りとして使われ、船旅や京を離れる際に、それを借りて持って行くという話は多々出ます。これが「玄猪の儀式」の始まりと言われています。
時代は江戸時代、後水尾天皇・徳川三代将軍家光に変わります。参勤交代の一環として、江戸城では毎月いろいろなセレモニーをして、諸大名は金銀を包んで持って行かなきゃならない。いわゆる幕府の政策です。このために御所の歳時をどんどん取り入れました。「玄猪の儀式」はそのセレモニーの一つです。
室町時代に足利将軍がそういう儀式をしたらしいですが、それから絶えて久しかったようです。それが江戸時代に復活したのですが、家光は詳細を知らなかったもんですから、皿に盛った小餅を節分の豆まきのようにばらまいた。それを一人の老人があわてて拾いまわる。大名たちは、武士たる者が小餅をひろい集めるなどとは何ごとか、とそれを見て爆笑した。それに対してその老人が大声でかくかくしかじかと玄猪の由来を説明した。この老人は大久保彦左衛門、そしてこの話は昔から講談師が好むらしい。確かに、大名たちが老人に叱られる場面を想像するだけで面白いですよね。
講談師のネタなのでどれぐらいが事実なのかは不明です。一方、江戸時代には茶人の炉開きだけではなく、亥の子餅の原点である「玄猪餅」も京都の庶民の間で広まっていたらしい、この儀式を真似たお菓子は実際に食べる「亥の子餅」と考えられます。この「亥の子餅」は、どんどん東海道を江戸の方へ下って行ったようです。ところが、江戸あたりでは非常にたくましい庶民性でもって、この玄猪餅を安産の御守りにすり替えてしまう。猪というのは多産なために、丈夫な子どもがころころ生まれるようにという願いをこめたらしい。
これが非常にうけて、今度は逆に東海道をずんずん上がってきて、京の愛宕だと吉祥院、修学院というような近在で流行りだすのです。そして、結局御所は表じゃ玄猪の儀式というのは変えられませんが、裏の常御殿の方で亥の子餅を食べるようになった経緯があります。
なるほど、長々となりましたが「亥の子餅」というのは宮中の「玄猪の儀式」を真似て生まれたものですね。どおりで由来に若干のズレがあるわけです。言い伝えなので、川端道喜の当主の話は必ず正しいというわけではないですが、明治時代、1月の季節和菓子「花びら餅」を裏千家11代目御家元玄々斎のために初めて作ったのは川端道喜ですので、これ以上の説得力はないと思います。
秋の風物詩「亥の子餅」
まさか江戸庶民のスピリチュアルな流行りから生まれたと、想像もしませんでした。まあ、由来はどうであれ、実際11月は秋から冬に変わり、季節の変わり目に体調が崩しやすいは確かですよね。初夏の「水無月」に似て、冬に挑む前の縁起物として、「亥の子餅」はばっちりだと思います。11月中販売する和菓子屋はいくつかありますので、スピってる江戸庶民に感謝しながら「亥の子餅」をぜひ食べましょう。



